閖上の光
朝日の閖上浜。
閖上ひとすじ、新たな旅立ち。
閖上の絆
閖上の架け橋、海からのおくりもの
幸せな味に出会うと、美味しい笑顔が溢れる。
“漁亭 浜や”で、海の旨さを愉しむ。
閖上に住む私にとって、あの3.11の大津波は全てを飲み込み流し去りました。
会社も家も、長年つとめてくれたスタッフも、大切な友人も…。悲しすぎる出来事でした。そして今、あの東日本大震災から早くも7ヶ月が経過しました。今振り返ってみて思うことは、あのとき一分逃げるのが早かったら、そして一分逃げるのが遅かったら、父と私たち夫婦は津波に飲み込まれたことでしょう。たら・ればの話はあまり好きではありませんが、あのタイミングでしか助からなかったでしょう。
3月11日午後、いつもの通りお昼の営業を終え、スタッフと遅い昼食をいただいておりました。
そのとき、今までに体験したことのないような大きな地震が私たちを襲いました。幸い、お客様やスタッフにけがはありませんでした。
しかし、この恐ろしい揺れに悪い予感を感じ、全スタッフには家に帰っていただき、家族には何かあった時のために避難所に避難をするよう言い、私は消防団として地域を駆け回りました。
地震発生から数十分すぎた頃、とてつもない大津波が襲ってくるという情報が入りました。
避難所であった公民館も危険だということで、公民館から数百メートル離れた閖上中学校に住人が逃げました。道路は大渋滞、街は混乱の状況を呈していました。私はお店に戻り、避難の準備をしました。私が店を出て、避難所へ向かうと大渋滞。刻一刻と時が過ぎ、うなりをあげながら迫ってくる津波を感じ、家族を乗せ一気に私は反対側の車線にアクセルを吹かしました。後は必死です。津波を後ろに見ながら、車を走らせ分かれ道、その時、閖上大橋の坂の所のスペースが目に止まりました。あとは覚えていません。気づいた時は閖上大橋のたもとに佇み、津波がどんどん街を飲み込んでいく光景をじっと見つめていました。間一髪のところで助かったのです。
完全に危ない状況の中、奇跡のように助かりました。振り返ってみると、私は助かったことが偶然とは思えません。私は考えました。どうして生かされたのかと。避難所の生活の中で、必死で大変でしたが、皆さんの暖かい励ましやお声をいただく中で、この命を津波ですべてを失った「閖上の復興」に捧げるのだという心の声を聞いたような気がします。8月に復興第一弾として長町に「浜や2号店」をオープンすることができました。そして、11月には仙台駅のエスパル地下に3号店をオープンする予定です。
大震災をチャンスとして、全てに感謝し進んで参りたいと思います。そして、閖上本店の復興を心に描きながら…。
2011.10
漁亭 浜や 有限会社まるしげ
代表取締役
佐藤 智明
TV(仙台放送、東北放送、東日本放送、ミヤギテレビ、NHK)、ラジオ(東北放送、Date-FM)、地方紙各種(朝日新聞、河北新報、産経新聞、毎日新聞、読売新聞)、ほか多数。